太平洋戦争が終結し、日本が復興に向けて歩み始めた昭和23年、仙台牛タン焼きの歴史が始まりました。
仙台牛タンの生みの親「太助」の初代店主 佐野 啓四郎氏(故)が、洋食料理の中で使われていた素材「牛タン」の旨さのとりこになり、試行錯誤を重ねた末「牛タン焼き」が誕生しました。
その自慢の一品を、お店で出したのが仙台牛タン焼きの始まりです。
牛タン焼き開発のきっかけ
当時は食糧難ということもあり焼き鳥屋さんでは鶏肉だけではなく、豚肉や牛肉など、様々な素材を焼き料理として提供していました。
そんな中、和食の職人として腕をふるっていた啓四郎氏の悩みは、焼き料理は調理方法が簡単でヒット商品を生み出しても、周りのお店に次々と真似されてしまうことでした。
啓四郎氏は苦しい胸の内を、洋食屋を経営していた親友の小野氏へ相談しました。
それから、何日かして小野氏から「お店で牛タンを出してみたら?」と提案されました。
和食では通常扱うことのない素材でしたが、職人としての好奇心からどんなに美味しいものかと思い、小野氏におすすめされた洋食屋でタンシチューを食べてみました。
「コクがあって本当に旨い!」一口食べて衝撃を受け、啓四郎氏は、「牛タン」の持つ素材の魅力にひかれました。
しかしながらタンシチューは3日も4日もかけてじっくり煮込んで作る料理のため、焼き料理中心のお店では適さない食材。
啓四郎氏の牛タン焼き造りの試行錯誤の日々が始まりました。
研究の苦悩
牛たんの研究をはじめて、すぐに困った問題にあたりました。
牛タンの素材そのものが仙台市内ではほとんど売っていないのです。
牛タンを求め宮城県内のと畜場や山形県内のと畜場へ電話をし、運良く牛タンが見つかると後日に取りに行くからとお願いして、牛タンを確保する日々が続きました。
当初はおっかなびっくりお客様の口に合うかどうか確かめながら販売する毎日でした。
一週間かけて宮城県内や山形へ買い出しに行っても、牛タンは10本も集まりませんでした。
牛タン1本から25枚前後しかとれないので一人前3枚限定としました。
職人の良心にかけて1頭に1本しかない牛タンとテールをいかにお客様に美味しく食べていただくか、そして食べさせ続けるられるか、とにかく頑張ったそうです。
仙台牛たんの誕生
牛タンの皮の剥き方も何もわからず、手には切り傷が絶えませんでした。
連日、牛タン相手に悪戦苦闘の末、和食の職人ならではのアイデアを思いつきました。
それは切り身にして塩味で寝かせて焼く現在の手法です。
一人作業場へこもり、牛タンの切り身の厚さ、包丁の入れ方、熟成期間、塩の量、塩の振り方、炭火の火力、焼き加減など、あらゆる角度から研究を重ねました。
そして・・・・・ついに、仙台牛タン焼きが誕生しました。